悲しみを咀嚼する|はらいそ通信

ランドマークと原風景

ランドマークとは、その土地の目印となる、若しくは象徴となる歴史的・文化的建造物や記念物を指す。生まれ育った町、思い出深い旅行先でのランドマークは心の拠り所になって重要な役割をもつ。生まれ育った町のランドマークは、町の人にとっては原風景(人の心の奥にある原初の風景のこと。懐かしいという感情を伴う風景で、どちらかというと現実風景よりも心象風景に近いとされている)として個人のアイデンティティにさえなり得ると考えている。

もう四半世紀近く前の話。大学のゼミで「デジャブ」をテーマにした10分間のショートフィルムを提出した時の話である。建築学を専攻し、都市計画を学んでいた自分が、設計図を描くこともせずにショートフィルムでコンセプチュアルな作品を提出したことに、保守的な教授たちから批判的な評価を下されたのを覚えている。

私は、物心ついた時からリビングや自分の部屋から見える東京タワーを見て育った。だから、幼稚園、小学校、中学、高校、大学時代とずっと日常生活のマドの向こう側には東京タワーがあった。海外旅行から帰ってきて、東京タワーを見つければ、多くの人がそう思うように「東京」に戻ってきたと感じる。そして私は更に、自分の家に着いたとさえ感じていた。

混沌とした映像の中に自分の心象風景を差し込む。かつてタバコを吸っていた父の幻想シーンや東京タワーをランダムに映像に重ねていく。

しかし、論文に東京タワーが自分の心象風景であると表記したら教授から否定された。いささかこれには驚いたのを覚えているが、自分のゼミの教師や若手の教師は、そのままやればいいと後押ししてくれたのもあり、私の心象風景はいまだ東京タワーで揺るぎない。

グリーフケア

初めてこの言葉を知ったのは、10年ほど前のこと。
その年の2月はとても冷たい雨の降る日が多かったように思う。前の年の暮れに晴れて夫婦になった友人たちと、正月はいつものように集まって、美味しいお酒とおせち料理を囲んで楽しい団欒を過ごして新しい年が始まった。そんな1月の終わりに届いたのが、新郎がインフルエンザで意識不明の重体という知らせだった。2週間後、彼は一度も意識を取り戻すことなく他界した。

しばらくの間、自分の住んでいた小さな町が悲しみに包まれていた。(自分にはそう思えた)しとしとと悲しげに止まない雨や、公園の木々でさえも悲しみで溢れているようだった。

通夜、葬儀、納骨が済んでも、悲しみがとまらない。何をする気にもなれず、ぼーっとしては、彼を知る友人に会えば涙ぐみ、ぽっかりと空いてしまった喪失感はなかなか埋まることはなかった。

そんな時に読んだのが「グリーフケア」に関する本だった。

「グリーフ(grief)」とは悲しみのこと。悲しみに向き合い、きちんと悲しみを受け入れることで悲しみきり、日常生活に徐々に戻れるようにさりげなくサポートするのがグリーフケアだ。

残念ながら、人間というのは不器用で、悲しみ方がわからない。

いつまで悲しんでいいのか、いつ悲しみから克服したらいいのか、悲しみのやり方すら途方にくれるくらいわからないのだ。

突然に来た別れならなおさらのこと。1ミリたりとも想像してなかった時に訪れる別れは本当に辛い。そして、そこから逃げたくなって悲しみに蓋をしてしまい、自分は大丈夫と繕う人も多い。これがやっかいで、悲しみ切ることをせずにくすぶったまま、立ち直ったふりを続けると、気がつかないうちに心の中を突然予期せぬ大きな悲しみに覆われるリスクがある。
そうならないためにも、悲しみを咀嚼する必要があり、その咀嚼を周囲の人たちがそっと寄り添いながらサポートすることを「グリーフケア」と呼ぶ。

私たちは新郎をなくした友人の家に足繁く通い、夏はみんなで川のほとりでいつもの夏のように、でもそれぞれの喪失感をもちよったまま泣きながら隅田川に向かって新郎の名前を叫んだりしたこともあった。

そして10年が経ち、今年の夏、同じ川のほとりで友人たちとビールを飲むまでに悲しみは緩和されている。

一番悲しんだのは遺族に違いないが、自分の人生の中でもとてもつらい別れだった。悲しみが癒えたのかどうかは正直わからない。でも、悲しみを持ち寄り、分かち合い、時に涙を流し、ハグをし、そして笑うことも分かち合う。そんな繋がりが、時間を経て日常へと戻してくれる。悲しみは消えることはないが、悲しみがすこしずつ軽やかになっていくのをなにかの折に感じることが出来る。


人はそんな風に悲しみをやりすごしていく。

これが10年経って学んだこと。

世界遺産首里城炎上

2019年10月31日未明、沖縄のランドマークであり、沖縄県民にとっての象徴でもある世界遺産首里城が火災で焼失するという事件が起きた。朝目が覚めて、携帯電話の新着メッセージをみると、東京の実家の母から

「首里城が燃えている!」

との着信があった。テレビのない我が家は、こうやって速報を手にする。何事かと思い、ニュースサイトを閲覧するとタイムラインは首里城炎上のニュースで埋め尽くされていた。

自分の住む町は首里からおよそ車で40分ほど場所で、それほど身近な存在ではなかったが、ニュースの映像や画像でみる真っ赤に燃えさかる炎は大きな衝撃を覚えた。那覇に地の利はないが、首里周辺のそよぐ風が好きで、那覇で好きな場所といえば首里といっても過言ではない。

その日は、はらいそに金細工職人が来ることになっていた。聞いてみるとその職人も琉球王朝時代の金細工の復元事業に関わっていたとのことで相当のショックを受けているようだった。

打ち合わせや接客などいつもと変わらない作業をしてはいるものの、どうにも心が落ち着かない。その頃からずっと「ランドマーク」「グリーフケア」という言葉が頭の中を占拠するようになった。

首里にはもともと用事があったので、伸ばし伸ばしになっていた用件を済ませに火災現場の首里城の前を車で通りながら、首里赤田町にあるCONTE_を訪れた。CONTE_の夫妻とは森道市場というイベントで一緒になったり、共通の知人が多数いることもあって行けばなにかしらユンタク(おしゃべり)がはじまる。料理の注文を終えて、しばらくすると奥さんの美保さんが降りて来て、首里城の火災の一部始終を聞くことになる。

昨日の今日ということもあり、まだ少し興奮状態ではあるものの、言葉を丁寧に選びながら、真夜中の真っ赤に燃える首里城の様子をありのまま話してくれた。

言葉に出していく作業が大事

編集者の美保さんは、言葉にしていくことで自身で感じている衝撃の分類作業をしているようだった。初めて間近で見た火事現場。赤々と燃え盛る炎の熱に対する得体の知れない恐怖心。いつもそこに当たり前にあったランドマーク(象徴)の喪失。人生をかけて修復作業に従事して来た人たちのアイデンティティの喪失感など、話しているうちにさまざまな衝撃がこの火災に含まれていることが汲み取れる。

距離が近ければ近いほど衝撃も大きい。逆に遠ければ遠いほど、次への踏み出しが容易い。情報は拡散され1日も経たないうちに復元に向けての動きが加速する。

でも実際に首里に訪れてみればわかるが、町全体が悲しみにすっぽりと包まれている。

ヘリコプターは音を鳴らして空を巡回し、お堀の前ではテレビ局やラジオ局、新聞記者などで物々しい現場感も残ったまま。

話をすすめる美保さんに相槌を入れる形で

「この町はきちんと悲しむことが必要だよね」

というと、思慮深く頷いて

「そう、きちんと悲しむことが必要」

と答える。

当事者から話を聞く行為はグリーフケアにつながると実体験から感じている。

自分は移住者でこの島のアイデンティティを持ち合わせていないけれど、それでもこの火災の衝撃はよほどのことだった。首里城は沖縄の人たちのアイデンティティとしての位置付けであっただろうと思うと言葉にならない。特に首里に住む人たちにとっては計り知れない消失感に違いない。

ふと、自分にとってのランドマークが消失したらと想像してみた。

家の窓から見える東京タワーがなくなる風景を想像してみたが、どうもうまく描けない。がんばってはみたものの、すっぽりと無くして残りの風景を再現して見てもどこか別の景色にしか思えない。

そんなことが実際にこの島で起きてしまっている。

日本中に衝撃が走って、瞬時に焼滅した首里城の復元に向けて物事が進んでいく。とても素晴らしいことだと思う。

でも、この町の人や、30年、20年、10年それぞれの人生で首里城に関わって来た人たちには

悲しみを咀嚼する時間が必要

首里城の思い出を語り合って、涙を流し、存分に悲しむ時間をぜひ作って欲しい。その思い出話に聞き手が必要なら、いつだって聞いてくれる人がいるはず。いないなら私が聞いたっていい。

言葉に発することで思考が整理され、自分のショックの内容に向き合える。そのひとつひとつを受け入れ咀嚼し、悲しみ切ってから一歩を踏み出したっていい。

自分が傷ついていることをなかったことにするのは、長い人生でどこかで辻褄が合わなくなるものだ。

形あるものは技術的に再現は出来る。30年かけて来た職人の技たちも、職人の記憶に刻まれている。やってきたことが無駄になったと思っていても、価値あるものは価値あるまま残り続ける。それは時に形として、時に記憶として。

時間が必要な人は、時間の許す限り悲しみを受け入れ、噛み砕く。そして消化してから次のことを考えたっていい。日常は気がつかぬうちに軌道修正されて元に戻っていくもの。

どうか悲しみの棚上げだけはしないでほしい。

今、世界中から沖縄が注目され、復興へとスピードが増していく。その流れに無理についていく必要なんてない。

やるべきことをひとつずつこなしていく。それが悲しむことだったらそれでいい。

はらいそ店主が取材したCONTE_の記事

http://okinawaclip.com/ja/detail/2455

世界遺産首里城再建寄付金一覧

2019年10月31日に火災によって焼失した世界遺産首里城の復旧支援の寄付先をご紹介。火災発生の日からすぐに支援金のプロジェクトは様々なスタートを切っている。まだ発生日から日も浅く、寄付金の乱立も懸念されるため寄付をされる方は、寄付先の信頼性を確認してからの実行をおすすめしたい。

ふるさとチョイス

ふるさと納税でおなじみのふるさとチョイスでは首里城再建のための寄付金募集が始まった。わずか1日で現在2億円を突破していたことでたくさんのメディアで話題になっている。

首里城への寄付、目標の1億円突破 「ものすごい早さ」朝日新聞

・マスコミ支援

沖縄タイムス社、沖縄テレビ放送、エフエム沖縄、NHK沖縄放送局、ラジオ沖縄、琉球朝日放送、琉球新報社、琉球放送の沖縄県内メディア8社・局が共同で「県民募金」をスタート。

・那覇市

那覇市では市役所をはじめ各窓口で募金箱を設置するとともに、銀行振込による寄付も受け入れ開始。

・琉球銀行 本店営業部 普通 1279506
・沖縄銀行 本店 普通 2603484
・沖縄海邦銀行 本店営業部 普通 913978
【口座名義:「首里城火災に対する支援金活動事務局 事務局長 屋比久(ヤビク)猛義(モウギ)」】

・日本航空及び日本トランスオーシャン航空(JTA)

日本航空および、日本トランスオーシャンは、即座に寄付金1000万円を決定し、そのほかにもJALマイレージバンク会員のマイルによる寄付の受付も開始した。

(1)支援金の寄付

 支援金として、首里城の復元に向け沖縄県にて開設準備が進められている「寄付金口座」へ1,000万円を寄付します。

(2)JALチャリティ・マイルによるマイル寄付の募集

 JALマイレージバンク会員の皆さまへマイルの寄付を呼びかけ、寄せられたマイル寄付相当額を寄付します。寄付先については、下記の受付Webサイトにてお知らせします。

 ・受付期間:2019年11月7日(木)17:00~12月22日(日)23:59(日本時間)

 ・受付内容:3,000マイル(3,000円に相当)を1口とするマイル寄付

 ・受付方法:JALWebサイトにおいて、1口(3,000マイル)単位の寄付を受け付けます。

JALオフィシャルページ

沖縄の象徴としての首里城

今年は、パリのノートルダム寺院の火災、首里城の火災と世界遺産の火災が立て続きに発生し、世界を震撼させた。ランドマークにはそこに訪れた人、そこで暮らしていた人の人生のページが綴られている。そこで人生の転機を迎えた人だってたくさんいるだろう。それぞれの悲しみをそれぞれにきちんと悲しみきること。それが今一番大切なことだということ。近くの人と悲しみを言葉にしてわかちあい、共有することが手助けになることもある。

忙しい日常の中で悲しみを抱えながら、少しずつ前を向く気持ちが芽生えるまで、時間の過ぎゆくままに身を委ねてみるのもいいかもしれない。

沖縄の人々の象徴が失くなってしまった今は、、、

2020年はまた違った1年でした