ぶらり、京都ひとり旅 | はらいそ通信

そうだ、旅をしよう

京都へ降り立つのは祖母の1周忌で親族が集まった頃だから実に6年ぶり。いつか仕事で関西へ出展する機会が出来たら、祖父母の眠る大光寺へもう一度墓参りへ行きたいと頭の片隅にいつも思っていた。

不思議なもので、こういうビジョンが実現する確率がなぜか高いように思う。もちろんすぐに実現できたわけではない。この6年の間に起きたことといえば、はらいそというギャラリーをオープンさせ、導かれるままに初めての県外催事で新潟に降り立ち、そこからいつかは日本橋へ行きたいと作家と夢を語り合っていたことも実現して2回目の催事も無事終えることができた。

しかも、新型コロナウイルスが世界中を覆い尽くし、世の中が時計仕掛けのようにピタリと止まってしまったような時空間の中で、有終の美を終えられたことに少しホッとしている。

東京から沖縄へ戻ると新型コロナウイルスの影響は収まるどころか広がり続けている状況へと再び深刻な様相を放っていた。世の中はまるで行き先を失ったような空気の中、それでも止まらない流れに身をまかせるしかないように感じられた。

自分にできることといえば、毎日の検温と手洗い、うがい、3密を避ける以外に見当たらず、習慣づいたこの行動を繰り返しつつ、8月5日から始まる京都伊勢丹の沖縄展の準備を着々と進めていた。

京都には昔から縁があり、宮大工をしていた祖父や祖母が眠る寺があったり、親戚が住んでいたり、人生の中で影響を受けあっている友人も複数存在する。

京都伊勢丹の仕事が決まった瞬間、ほぼ条件反射のように早めに京都入りするために航空券だけは購入した。

久しぶりの京都を旅しよう

まだ、寒さが残る時期、そんな気持ちが芽生えていた。

しかし、なかなか友人と会う約束を率先してできる状況にはならず、静観しながら日々を過ごしていた。

結局、京都、奈良、大阪の友人全てにコンタクトを取りたかったが、状況が状況なだけに、本来の目的の「墓参り」だけをマストとして京都へ行くことを決心する。

「そうだ、京都を旅しよう」といえば、きっと今までは「いいね、楽しんでね」と行ったような前向きな言葉しか発せられなかっただろう。

でも、「そうだ、旅行へ行こう」と今SNSに書き込んだら違った反応が得られる世の中になってしまったのは事実だろう。

「ただ出張に合わせて数日京都で過ごす」ということでこんなにも行きたいところ、食べたいところ、会いたい人以外のところで思考せねばならない世の中になるとは思ってもいなかった。

別のベクトルでは、旅行に行けば、旅行代金を国がサポートしてくれるという素敵なサービスも降り注がれている。世の中の心情と政策はとても乖離していたが、どちらも取ることができる世の中、どれを取るかは自分次第ということなのだろう。

ということで、毎日の健康管理を自分にしてはきちんと体温計測をして手洗い、うがい、所によってマスクをつけながら京都へ旅をに出かけたのだった。

再会

初日は友人宅へ滞在。沖縄へ移住して間もなく知り合うことになった、ムービーカメラマンの友人とは、沖縄CLIPで一緒に仕事をしたり、沖縄のムービーコンテンツ制作では何度か仕事を共にして、はらいそのムービーも撮ってもらったことがある。気がつけば飲み友達になり、沖縄に仕事に来た時はいつも我が家に泊まって夜は楽しい宴会。今度は自分が京都へ泊まりに行くことに。

友人がどハマり中のインド刺繍

楽しい団欒は時間が過ぎるのもあっという間。沖縄のこと、京都のこと、今この世の中で起きていること、友人がはまっているインド刺繍のことなど、尽きぬ話に後ろ髪引かれつつ、次の再会へ。

翌日は、中学、高校、大学と同じ学び舎を共にした先輩に会いに京都烏丸四条へ。建築を専攻していた私たちは、建物が好きで、街が好きで、90年代後半はお互いNYにはまってNYで課題の模型作りなんかもした仲の友人。

先輩が手がけたレストランの屋上庭園

久々の再会に指定された場所は、彼女が携わった植栽が施されたレストラン。目の前の菜園で取れた新鮮な野菜を振る舞うランチを堪能。左のふくよかな方は、建築家で、京都・福井を行き来しながら学生たちを巻き込んでまちづくりを15年近く続けている。

私たち夫婦共々お互い20年近く前からの知り合いで、それぞれの人生を歩んできてゆっくりランチやお茶をしながらお互いの仕事や家庭の話を報告する和やかなひととき。

出町の近くに流れる川沿いを、水遊びする家族づれやカップルや学生たちを横目に3人で散歩しながら豆大福を買って先輩宅についてしばらく団欒。

数年前、京都の古民家をリノベーションした彼らの家の玄関には、結婚祝いに贈ったル・コルビュジェのリトグラフが飾られていた。なんでも玄関のテーマは「赤」だそうで。

自分の家にそう行ったテーマ作ってなかったな・・・なんて思いながら、大切に飾ってくれていたことにじんわり胸が熱くなった。

自分たちの旅や人生の中で出会った大切なものたちが散りばめられたその家で、3人で豆大福を食べながら、尽きない深い話を続ける。

時間が経っても変わらないこの関係が何より心地よい。

伏見稲荷

翌日は、朝一で、紫色が好きだった祖母のためにリンドウの花を買い、仁王門通りにある大光寺で墓参りを済ませ、その後JRに乗って伏見稲荷へ。

伏見稲荷の参道も国際通り同様シャッターが閉まっているお店が多く、観光地への打撃は沖縄に限らず日本全域に広まっていることを実感。

複雑な気持ちを抱えながら、真夏の京都の稲荷山に一人挑む。途中何度もめげそうになったが、自分には超えなければいけない山があるのではという思いと、かつてツイッターでとある俳優がつぶやいた「越えられなさそうな山は避ければ良い」という誘惑とのせめぎ合いを重ねてようやく山頂にたどり着く。

この山を越えた先には何が待っているんだろうか。

東京時代に住んでいた門前仲町の隣町、清澄白河にあった赤々舎という写真専門の出版社が7年くらい前に京都に移転していた。当時、幼い娘や息子をつれながら写真集を買いに行ったり、展示を見に行ったりしていたのがきっかけで、出版社を営む赤々舎の姫野さんと語るようになる。

「私、今でも河野さんがてっちゃん(夫)の誕生日に写真集を買いに来たことを覚えてるんです。あの時の記憶がずっと残っていて」

確か、その時の会話が東京で彼女と交わした最後の会話だったかもしれない。

あの雨の日は確か二人きりで不思議な会話をしたのを自身の記憶にも残っている。

世界中が泣いているような雨の日だった。

その翌日に親しい友人の訃報が届いた。

沖縄へ移住する前に、記念にと赤々舎の写真集を買いに行った時、彼女は大分の実家に帰省していた。

その後、しばらくして沖縄で再会したり、写真家をつないで出版に至るちょっとしたサポートをしたりなんとなく彼女との交流が続いていた。

時間の許す限り、新刊の写真集を見せてもらい、それぞれにまつわる話を聞いて、つれていく写真集をゆっくり吟味する。

こういう時間はなかなか沖縄では作れない。一人旅の醍醐味というものだ。

2冊に絞ったはいいが、この「椿の庭」という本の装丁が素晴らしすぎて悩んでいると伝えると、プレゼントしてくれるという。

昔から私は遠慮がないというか、こういう申し出は能動的に受けるものと捉えて遠慮せずいただく。

いただいた気持ちは、自分が同じ気持ちを抱いた時に別の誰かに循環すればいいと考えている。

要か不要か、急か不急か

ここ半年で、世界はまるで変わってしまったかのように思える反面、自分の核の部分で何か変わったことがあるかと問われれば、さほど変わることは実はない。

緊急事態宣言がなされる中で課せられる「不要不急の概念」に支配され、何を指標にしたらわからなくなることもあった。でも、結局のところ人生の責任は自分で取るしかない。人生は決断の連続。その決断を周囲の目や世間体に委ねることを手放してみることにした。

人生におけるリスクは

いつだって存在する。

京都に訪れる機会が自分の残りの人生で

あと何回訪れるかわからない

一見、今じゃなくていいのではないかという思いと

年老いた親族に会うたびに思う

あと何回会えるのかと思う気持ちと

複雑に絡み合いながら

旅することに決めて改めて思う。

以前よりクリアしておくべきことは増えたけれど

人生、もっと旅をしよう。

会いたい人に会うことは

要か不要かと問いてみれば、

自ずと答えはでるだろう。